写真学より写真眼

ツィッターにちょっと気になることが記されていた。ヨハン.オーカタの記事。共感。こんな記事を読むと、うれしくなっちゃう。この新鮮さを忘れたくないもんだ。今現在、技術、機材に熱中しているSBJPGのメンバー達 (特に上達者)に、気づいて欲しいことなんだけど。。。

”今日性”を潔く脱ぎ捨てていく新鮮さ

 「風の旅人」第38号(2009 10/1発行)に、写真を撮り始めて一年にすぎないヨハン・オーカタ(1986年生まれ)という若者の写真を12ページにわたって掲載している。

彼の写真特集の前後には、森永純や、久保田博二といった戦後日本の写真史に燦然と足跡を残す写真家の作品が続いているが、ヨハンの写真からは、経験や技術の差を乗越える力が伝わってくる。その力は、一言で言うと対象との呼応力とでも言うべきものだ。

写真表現というものは、対象との関係性を軸にしているため、対象とどう関わっていくかが表現の生命線になる。新人のヨハンの写真が熟練者に拮抗できるのは、彼ならではの対象との関わり方があるからだ。

ヨハンは、対象と向き合う時、世間の標準的な価値観や偏見を、すっかり殺ぎ落としている。

“感じるまま表現する”と言うのは簡単だが、世間的な枠組みから自由になれる人間は限られている。だから、自分らしさを強調する表現者でも、他人との比較や世間の評価に囚われている人は多い。

ヨハンは、写真家になろうと決心する以前、その種の足枷を取り除くことに多くの時間を費やし、苦しんできた。

表現を志す者にとって最も大事で困難なことは、技術の鍛錬以上に、知らず知らず自分に染みついている世間の標準的価値観を脱ぎ捨てることであり、それをできずして、表現によって新たな視点をもたらすことはできない。

ヨハンの写真表現の新鮮さは、メディアが伝える“今日性”を潔く脱ぎ捨てていることだ。その潔さが、彼の写真に、“軽やかなる土着性”という新たな感受性を吹き込んでいる。

和歌山で生まれ育った彼は、上京して都会で暮らしている時、自らの強い自意識によって心の病に陥ってしまったが、写真とともに生まれ故郷と出会い直すことで、自意識の狭い世界の外に少しずつ足を踏み出して行った。

彼にとって和歌山の記憶は身体の一部であり、日頃は意識できない。その和歌山と出会い直すことは、自分の広大な無意識の領域と出会い直すことであり、それは自分でも気付かなかった自分自身を確認していく喜びでもある。

それゆえ、彼の写真は、和歌山の土地に深く入り込むほど、シリアスだけど、どこか晴れやかなものになり、世界を受け入れるような気持ちになる。

自分が生まれ育った土地を、先入観のない真新しい目で見つめ続けるヨハンのスタンスに、私は、自己主張や自己顕示欲の渦のなかで澱んでいるアート業界とまったく別のベクトルを持った表現が立ち上がる可能性を感じる。

ネガティブな気分が蔓延する現代社会において、新しい才能に期待す ることは唯一つ。一般化された世相を小手先でなぞったり意味深に象徴化したり、皮肉ったり儚んだりするのではなく、私達が還るべき場所を虚心の目で真っ直 ぐに指し示すこと。ヨハンの写真は、それが決して不可能でないことを、さりげなく伝えている。

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